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仏教の基本 平等主義:性別、年齢、職業、地位、出家者、一般在家に関係なく平等に受け入れ教えを説く。 法(真理):十二縁起(十二因縁)の法、四諦の法、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印。 法をダルマと言います。 八正道:正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。 非苦行:体を痛めるような極端な修行はしない。 解脱:輪廻の苦しみから離れることを解脱と言います。 十二縁起(十二因縁) お釈迦様が悟った直後、自らの苦を解決する道が正しかったかどうかこの十二因縁によって確認したとあり、人間が苦を感ずる原因を順に分析したものであることを説いていいます。迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが悟りであり、この十二因縁が迷を示していると言っています。 お釈迦様が説いたとされる縁起 此があれば彼があり、 此がなければ彼がない、 此が生ずれば彼が生じ、 此が滅すれば彼が滅す 無明/仏教では十二因縁の根源は無明とします。過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なのです。 すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると 説くきます。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることによ り消滅すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には四諦、八正道であると説かれていて この四諦、八正道を知らないことも無明である。 行/意識を生ずる意志作用である志向作用。 識/対象を分析し分類して認識する作用のことである識別作用 。 名色/物質現象(肉体)と精神現象(心)。 六処/眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官 触/六つの感覚器官に、それぞれが触れて感知すること。 受/感受。 愛/人間が持つ根本的な欲望のことを渇愛と言います。 取/自分の求めるもののために馳求すること。 有/毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だから で、その生活こそ生老死を苦とする根本で、それを有といいます。 生/生まれること。 老死/老いと死。 苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされます 四諦(四聖諦) 苦諦/人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本です。 仏教で言う苦/精神と肉体の苦 四苦八苦 四苦:生・老・病・死 この四苦に次の四苦を加え八苦と言います。 愛別離苦/愛するものと分かれなければならない苦しみ 怨憎会苦/憎んでいる者に会う苦しみ 求不得苦/欲しいものが得られない苦しみ 五蘊盛苦/心身の機能が活発なため起こる苦しみ 五蘊盛苦 色/すべての物質。身体が活発であることために起こる苦しみ 受/物事を見て外界からの刺激を受ける心の動きや機能。 想/見たものについて何事かを感じたり連想する心の機能 行/感じ連想したものについて、何らかの意志判断を下す心の機能 識/外見(刺激とイメージ)内的作用(意志判断)を総合して判断する。 集諦/集諦とは苦が、さまざまな悪因を集め起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言います。 集諦とは苦の源、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれ「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるといはれます。 滅諦/苦滅諦といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった境地を涅槃と言い、いっさいの煩悩のから解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいいます。或いは、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦といいます。具体的には、諸法皆空は森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであります。 道諦/苦滅道諦で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。いろいろあるといわれる修行の中の一つの課程が内観法や八正道です。三法印 諸行無常 この世のあらゆる全ての現象・存在は移ろい変わりゆくもので、生滅変化を繰り返し常ならずということであり、この 世における現象・存在には、永遠不変なるもの、永遠不滅なるものは一切何もないということでもあります。 諸法無我 すべての存在には、主体とも呼べる我がないことをいう。 私は私であると考える。諸法無我はそれを我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだと説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。 一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えていて、このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。 涅槃寂静 煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であります。 涅槃寂静は、仏教が他の教えと根本的に違うことを示します。 三法印に「一切皆苦」をを加えたものが四法印です。 八正道 お釈迦様は、その最初の説法(初転法輪)で、まず非苦非楽の中道を説き、それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれます。 正見 身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことが正見です。 日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、真実の認識の完成である。「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれます。 正思惟 出家を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することです。日常的なもののいっさいの否定をいう。 財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。 瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。正思惟とは、自我的立場を否定して、無我こそ自己の真実であると見きわめることである。 正語 妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることです。 正業 殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践で妄語、綺語、悪口、両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重です。 正命 このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのです。以上の八正道の正見こそが真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が正思惟以下の七支であるから、この八正道は人間の実践道となるとお釈迦様は説いたといわれます。 |
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