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大隈重信花押
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佐賀藩士、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。
1838年2月16日、佐賀市水ヶ江に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟に副島種臣、江藤新平らと参加した。大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。1867年、副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。明治維新に際しては小松清廉の推挙により1868年、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。1872年には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。1873年(明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして築地梁山泊と称した。
自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、1881年10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。
野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、1882年3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと学問の独立・学問の活用・模範国民の造就を謳って東京専門学校・現早稲田大学を、北門義塾があった東京郊外の早稲田に開設した。
大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、1888年2月より大隈は外務大臣に就任した。
1898年6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。1916年10月、政界から完全に引退した
1922年1月10日に胆石症のため早稲田の私邸で死去。



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