安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。輝元を長州藩の初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。
1553年1月22日、毛利隆元の嫡男として広島県に生まれる。11歳の時に父・隆元が急死したため、祖父・毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。
輝元は中国路の覇者となるべく元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦って勝利し、さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け、九州や中国地方に勢力を拡大した。
関ヶ原の戦いでは安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。西軍が壊滅した後、自ら大坂城から退去したのである。
大坂の陣においては輝元が西軍を指揮した書状を多数押収したことから、毛利輝元を改易、しかし井伊直政が家康に不義を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石に大減封となった。
1625年6月2日、萩の四本松邸で死去した。享年73。
嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった。 |
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